【今週の悩めるマダム】10年前の東日本大震災で家族を亡くしたものです。先日、また大きな地震が東北を襲いました。今回の地震では、食器などが割れてしまったものの、幸いけがなどの被害はありませんでした。しかし嫌な記憶がよみがえってきて、また眠れなくなってしまいました。やっと乗り越えられてきた矢先に、心が潰されそうです。(宮城県在住・50代主婦)あれから10年の月日が流れましたが、つらい記憶にいまだ多くの方が苦しんでいらっしゃると思います。しかし、このような自然災害は、残念ながら地球が続く限り、繰り返し起こるものです。人間の力ではどうすることもできないこのような不条理なことが、皮肉にも人生にはたくさんふりかかってきます。その都度、人間は立ち止まり、吹き飛ばされないように、心を必死で保たないとならないのです。そうしたことも含めて“生きていく”ということなのでしょう。もちろん自然災害だけではありません。交通事故もあれば、癌などの重たい病気もありますし、まさにコロナのような感染症のパンデミックもあります。私たちに悲しい記憶を思い起こさせるような出来事は、今後も形をかえ、次々と私たちに襲い掛かってくることでしょう。さて、僕はあるときから、心の片隅に“ある種の覚悟”というものを常に用意するようになりました。これを皆さんに真似してください、というつもりはないのですが、とりあえずちょっと読んでみてください。僕は61年生きてきましたが、結局のところ、人生とか運命というものは、実はどんなに拝んでもどんなに頑張っても、もうどうすることもできないものだと悟ったのです。なぜならば、人間は遅かれ早かれ、いつかは死ぬことになるのです。ご存知のとおり、この運命から脱出できた人間はいまだかつて一人もおりません。地震も起こるでしょうし、交通事故に不意に遭遇することもあるかもしれない。コロナにかかって、死にそうになるかもしれない。あるいは、死ぬかもしれない。人間が自分でどうすることもできないことを“不条理”というのですが、実際のところ人生のほぼすべてが不条理だと考えていた方がいいでしょう。免れない死を覚悟してみると、不安はほんの少しマシになります。いつか終わりがくることを怯えて生きることも、苦しい過去を背負い続けて生きることも、人間にはできます。でも、「いつかは自分もこの世を去らないとならない」と覚悟する境地が、逆に僕を楽にしてくれることがあるのです。諦めではありません。境地です。人間がどんなに考えても、死の先にあるものは見えません。見た者もいません。しかし、終わりのある人生の本質と向き合い、そして理解することはできます。死を悟り、今を一生懸命生きることで、僕はつらい過去と和解してきました。そして、いつも月を見上げながら、「いつか、そちらに帰ります。それまであと少し、精一杯生きさせてください」と祈るのです。天に召されるという言葉がありますが、その免れない最期に、「素晴らしい人生だった」と思えることが天国なのだと信じたいですね。つらいこともありますが、今生を共に生きてまいりましょう。【JINSEIの格言】免れない死を覚悟してみると、不安はほんの少しマシになります。「いつかは自分もこの世を去らないとならない」と覚悟する境地が、逆に僕を楽にしてくれることがあるのです。この連載では辻さんが恋愛から家事・育児、夫への愚痴まで、みなさんの日ごろの悩みにお答えします!お悩みは、メール(jinseinospice@gmail.com)、Twitter(女性自身連載「JINSEIのスパイス!」お悩み募集係【公式】(@jinseinospice)、またはお便り(〒112-0811 東京都文京区音羽1-16-6「女性自身」編集部宛)にて絶賛募集中。※性別と年齢を明記のうえ、お送りください。以前の連載「ムスコ飯」はこちらで写真付きレシピ公開中!
2021年03月16日“日常をより豊かにする”ビジョンを掲げ、インテリア・キッチン・ライフスタイル商品の卸売及び販売を行う株式会社マークスインターナショナル(本社:東京都渋谷区恵比寿西2-21-1、代表取締役:大谷正人)は、同社が展開するインテリア・ライフスタイルブランド「DUENDE(デュエンデ)」より、建築家・芦沢啓治氏デザインによるSHELF『Margeshelf(マージシェルフ)』シリーズを、2021年3月10日(水)より販売を開始いたします。「DUENDE」は、機能美を追求したオリジナルのインテリア・ライフスタイル商品を取り揃え、全国のインテリア・ライフスタイルショップ及びマークスインターナショナルが展開するECサイトで販売を展開しているブランド。生活の舞台となる部屋や空間で、ずっと一緒に生きる家具を提案しています。DUENDEデュエンデへ今回新たに販売される新商品は、業界で注目を浴びる建築家・芦沢啓治氏により、DUENDEのオリジナル商品としてデザインされたもの。使いやすさと、そこに置くモノを主役に引き立てるステージ『Margeshelf』は、現代のインテリアに違和感なく馴染み、落ち着きがあり、3色からなる淡い色合いの棚板はそれぞれの配色が組み替えできる構造になっています。新生活の準備にむけて、また、自宅で過ごす空間を快適にしたいといったニーズのなか、日々の暮らしを少し豊かにしてくれるインテリアで、ぜひ日常の価値を愉しんでみてはいかがでしょうか。■新商品販売概要商品:Margeshelf発売:2021年3月10日(水)10時〜販売元:株式会社マークスインターナショナル販売店:全国のインテリア・ライフスタイルショップ、及びDUENDE.jpDUENDEデュエンデへ■Margeshelf(マージシェルフ)商品概要『Margeshelf』は、DUENDEのコンセプトでもある極限までミニマルな構造にし、究極の機能美を追求するシェルフとして誕生しました。収納するモノとして存在するだけでなく、物を整理し、しまい、並べておく、など使う人のあらゆる用途を想定し、構造からデザインまでを考え抜いて作られています。デザインは、DUENDEでオリジナル商品を数多く手がける建築家・芦沢啓治氏によるもので、薄くても頑丈なスチール構造材の要素と、自然で優しい印象のオーク無垢材のバランスにより、まるで置くモノを引き立てるステージのようでもあります。棚板の後部を直角に45ミリ折り曲げ、立ち上がらせたことで強度を保ち、背板としての役割をもたせています。45ミリの背板はさりげない存在感で、収納した本や置いた物を整頓しながらも、それを引き立てるような佇まいを演出してくれます。また、今回のシェルフの特徴でもある棚板は異なる3色の組み合わせで、インテリアの雰囲気やお好みに応じて棚板の並びを変えることで、さまざまなグラデーションを楽しむことができます。棚としての機能とミニマルなデザインが融合した『Margeshelf』。あらゆる空間で生活を引き立てる洗練されたデザインをお部屋に取り入れてみてはいかがでしょうか。Marge shelf 3Marge shelf 4Margeshelf3/3-SHELVES売価:35,000円(税抜)サイズ:W800*D350*H723mm棚から棚の間隔:下段310mm/上段242mm重量:13.6kgマテリアル:スチール/オーク無垢材カラー:LightGrey/Beige/DarkGreenデザイン:芦沢啓治Margeshelf4/4-SHELVES売価:45,000円(税抜)サイズ:W800*D350*H946mm棚から棚の間隔:下段310mm/中段242mm/上段198mm重量:17.6kgマテリアル:スチール/オーク無垢材カラー:LightGrey/Beige/DarkGreenデザイン:芦沢啓治芦沢啓治/あしざわけいじ1996年横浜国立大学建築学科卒業。architectureWORKSHOPにて建築家としてのキャリアをスタートし、superrobotでの2年間にわたる家具制作を経て、2005年芦沢啓治建築設計事務所設立。また、2011年東日本大震災を受け地域社会自立支援型公共空間、石巻工房を創立。2014年石巻工房を家具ブランドとして法人化。建築、インテリアだけにとどまらず、カリモク、IKEAなどの家具ブランドとの協業や、Panasonichomesとのパイロット建築プロジェクトなど幅広い分野で活動を行っている。建築、リノベーションから照明・家具デザインに一貫するフィロソフィー「正直なデザイン/HonestDesign」から生み出される作品は、国内外から高く評価されている。■DUENDE(デュエンデ)について家具は、ずっと一緒に生きるものだから。機能する、美しさを。【DUENDE】とはスペイン語で“心を魅了する”という意味。機能美を追い求めて辿り着いたそのフォルムは、言葉にはできない光る魅力を放ち、美しく、シンプルに、さまざまなライフスタイルに馴染みます。木材とスチール。素材の特徴を生かして描く独特な曲線。ひとの心に残る、他にはない趣(おもむき)。曲げる。つなげる。磨く。時には、あえて手を加えないのもDUENDEの技です。生活の舞台となる部屋に、空間に、こだわりの家具があったなら。あなたの毎日は、もっと光り輝きます。DUENDE(デュエンデ)HPへ■marcsInternationalco.,ltdについて日常をより豊かにする。日々の生活の中で我々はあらゆる“もの”に囲まれて暮らしています。我々のなにげない生活の中で毎日使うもの、毎日目にするものが、なんとなく気に入っていたり、好きなデザインであることが、日々の暮らしを、少し豊かに感じる手伝いをしてくれているのだと思っています。そんな想いから、世の中の誰かに素敵だな、と感じていただけるようなプロダクトをみなさまにご紹介していくのが、我々の使命です。■会社概要社名:株式会社マークスインターナショナル所在地:〒150-0021東京都渋谷区恵比寿西2-21-1電話:03-6861-4511設立:平成9年1月6日代表者:大谷正人資本金:2,000万円取扱商品:インテリア商材、ファニチュア、キッチン&テーブルウェア株式会社マークスインターナショナル HPへ■商品に関するお問い合わせ先株式会社マークスインターナショナル:digima@marcs.co.jpDUENDE(同社ECサイト):store@duende.jp企業プレスリリース詳細へ TIMESトップへ
2021年03月16日「いつ倒れてもおかしくない状況下で、幸い未然に適切な処置を施すことができた人との出会い、強運に感謝したい。今は元気に生きてます」2月26日、都内の病院で狭心症の手術を受けたことが明らかになった吉川晃司(55)。冒頭のコメントは吉川が『デイリースポーツ』の取材に語ったもので、昨年暮れの人間ドックから詳しく検査をした結果、狭心症が発覚し、2月中旬に手術に至ったという。吉川は’08年の映画『チーム・バチスタの栄光』で心臓外科の権威を演じている。実は今回、吉川の命を救ったのはリアル“チーム・バチスタ”だった。「13年前、この映画で医療監修を担当した大学病院の腕利き心臓外科医と吉川さんは撮影後も交流が続いていました。今回の手術も、その外科医の下で結成された医療チームが担当したといいます。実は、吉川さんの妻・A子さんも当時、撮影現場の医療技術スタッフとして参加していた看護師さんでした」(映画関係者)撮影後に2人の交際が始まり、A子さんは’09年に未婚のまま北陸の実家で長女を出産。「吉川さんは’11年、東日本大震災の数日後、被災地にボランティアとして駆けつけました。“家族は離れ離れになってはいけない”と実感したこともあり、A子さんと娘さんを東京に呼び寄せて正式に入籍したそうです」(吉川の知人)当時、吉川は結婚について《順序が逆になったことについて言い訳はしません、自分がどこか弱かったと思います。ただ、筋は通させてください》とHPでつづっていた。「結婚後もA子さんは看護師経験を生かして、吉川さんの体調管理を徹底していました。ただ、吉川さんは’15年にバイク事故で全治2カ月、’17年に声帯ポリープ手術で1年ステージを休むなど、A子さんの心配の種は尽きなかったようです。今回も検査の結果、心臓の30%がうまく機能していないことがわかり、いつ心筋梗塞で倒れてもおかしくない、かなり危険な状態だったようです。奥さんは当時の医療チームと頻繁に連絡を取ってアドバイスを受けていたと聞きます」(前出・吉川の知人)術後の経過は順調で、この3月中にはアクション作品の撮影で本格復帰の予定だという。「奥さんのサポートを受けて体調を整えながら、5月にはコンサートにも臨むそうです」(音楽関係者)愛妻をはじめとした「チーム・バチスタ」に支えられ、今回も大事に至らずに済んだ吉川。また、躍動する姿を見せてくれそうだ。「女性自身」2021年3月23日・30日合併号 掲載
2021年03月15日意外と知らない社会的な問題について、ジャーナリストの堀潤さんが解説する「堀潤の社会のじかん」。今回のテーマは「東日本大震災から10年」です。震災に終わりなし。この先も風化させてはならない。東日本大震災から10年が経ちます。福島第一原発事故により帰宅困難区域に指定されていたところも、2023年までに全面解除・帰還を目指すことになりました。大きな被害にあった南相馬市と浪江町では、ロボット開発をする企業が誘致されたり、浪江町では民間の新しい電力会社も太陽光エネルギーの拠点として立ち上がるなど、新しい街づくりが進んでいます。復興の明るいニュースがある一方で、故郷を追われ、いまなお避難生活を強いられている方が東北だけで3600人おられます。石巻では復興計画が進まないまま、移動困難な地域に住む高齢者が孤独死するケースが増えています。長引く避難生活でコミュニティを再生できず、日常を取り戻せないまま亡くなってしまう。共同通信によると、避難を余儀なくされた福島県の7町村で、震災関連死と認定された人は、1月現在、それぞれ人口の1%以上にのぼることが判明しました。災害で亡くなった直接死よりも、震災関連死のほうが多く、これまでに2313人が亡くなり、その9割が南相馬市など避難指示区域に設定された市町村でした。原発事故で故郷を失い、住まいを転々とする避難生活が心身にダメージを与えたことが顕著になっています。自殺者数も被災3県(岩手、宮城、福島)のなかで福島県が最も多く118人。なかでも男性が多く、働く場や生活を根こそぎ奪われてしまったことが要因と考えられます。生業を奪われた人々が、国と東電相手に訴訟(生業訴訟)を起こし、昨年9月に仙台高裁では勝訴しました。しかし、この10年の間に100人以上の方が亡くなり、原告の数は年々減ってしまっています。震災から10年。復興庁は継続しますが、様々な支援は次第に打ち切られます。世間的に忘れられていくなかで、いまだに十分な補償ももらえず国とも争わなければならない。地域のコミュニティは分断され、疎外感を抱きながら暮らす人々。一概に「東北では」「福島では」と大きな主語では語れません。今年2月、福島県沖で再び大きな地震が起きました。読者の方々には、現地を訪れるなど、ぜひ今後も東北と関わり続けてほしいなと思います。堀 潤ジャーナリスト。市民ニュースサイト「8bitNews」代表。「GARDEN」CEO。『モーニングCROSS』(TOKYO MX 平日7:00~8:00)にメインキャスターとして出演中。※『anan』2021年3月17日号より。写真・中島慶子イラスト・五月女ケイ子文・黒瀬朋子(by anan編集部)
2021年03月13日2011年3月11日に、東北地方を中心に大きな被害をもたらした東日本大震災。地震にともない発生した大きな津波は住宅地をのみ込み、多くの死者や行方不明者を出しました。震災当時は学校に通いながら、通信教育の『進研ゼミ』をしていたという、逹己(@tatsuki_)さん。地震による津波で、自宅の1階が浸水し、進研ゼミの教材が流されてしまったといいます。逹己さんは、震災から3週間が経った頃、進研ゼミに連絡し、次のような質問をしました。「津波で流されてしまった4月号の教材を、新しくもらうことはできますか?」すると、電話を受けたスタッフの女性は、涙声でこうつぶやいたのです。「…!生きて…らっしゃったんですねぇ…!」この日になると毎年思い出すんですが震災時学生でワイ宅1階浸かったんだけど当時進研ゼミやってて津波で流されたから4月号って新しく貰えますかって電話したら「…!生きて…らっしゃったんですねェ゛…!」って電話口のお姉さんが涙声で対応してくれたのを思い出すんですよね— 逹己/アルゴナビスをよろしく (@tatsuki_) March 11, 2021 その後、泣きながら「すぐにお送りいたします」と答えたスタッフ。すぐさま手配してくれた結果、後日きれいな状態の教材が届いたそうです。当時電話で対応したスタッフは、亡くなった被災者の遺族などから、退会の連絡を受け続けていたのかもしれません。当時の状況を物語るエピソードに、ネット上ではさまざまな声が寄せられています。・素敵な話に胸が熱くなりました。・ボロ泣きしてしまいました。人の命の尊さを、改めて実感させられます。・電話を受けたスタッフは相当嬉しかったのでしょうね。生きていてくれて本当にありがとうございます。逹己さんは、3月11日が訪れるたびに、この出来事を思い出すのだそうです。東日本大震災は、私たちの心に大きな傷を与えました。実際に被災地で傷付き苦しんだ人々はもちろん、遠く離れた土地で被災者の安否を確認できず、無事を祈ることしかできなかった人にとっても、不安な日々だったはずです。人と人のつながりを感じさせるエピソードに、胸が熱くなりますね。[文・構成/grape編集部]
2021年03月12日昨年3月、新型コロナウイルスによる肺炎のためこの世を去った志村けんさん(享年70)。その銅像が故郷の東京都東村山市に設置されることが3月9日に発表された。各メディアによると銅像は「アイーン」のポーズをしており、7月上旬にはお披露目される予定だという。志村さんが亡くなって早1年。ネットでは《いろんな世代から愛され、みんなに笑いを届けてくれた志村さんが大好きです。銅像出来たら見に行きたいと思います》《まさか銅像になるとまでは本人も思わなかっただろう。それほどに偉大な存在となったということ》と改めて、生前の功績が讃えられている。そして、このニュースの2日後に迎えたのが3月11日。東日本大震災の発生した「3.11」から10年目という節目の年を迎えた。志村さんのブログをひもとくと、11年3月13日の記事に震災当日のことがつづられている。志村さんは「高速道路走ってて地震あいまして」「こんな怖い思いは人生で初めて本当に怖かったよ」といい、さらにこう続けている。「それよりテレビで映像見て私なんかより想像絶する言葉がありません津波の怖さ」「何も出来ない涙が出ます」同年3月27日のブログには、福島県いわき市にロケで行った思い出が記されている。「海岸の店でおばちゃん達にしらす丼食べさせてもらい楽しく会話したのを覚えてます」と回想したものの、「その店は流されて無いそうです辛いです」と無念さを滲ませている。「志村さんはその年の4月、募金活動を行いました。1日で213万円もの大金を集め、被災地に寄付。『自分には何もできない』と思っていた志村さんは、募金してくれた人たちにしきりに感謝していました」(スポーツ紙記者)■「少しでも震災を忘れてくれたらいいな」震災後、ブログで何度も「合言葉はだいじょぶだぁ」「明日はだいじょぶだぁ」とのメッセージを送っていた志村さん。13年4月に放送された番組「志村けんと行く!勝手にドッキリ感動旅!」(テレビ東京系)で三陸鉄道の旅に出ている。そして当時、三陸鉄道・吉浜駅の非常勤駅長に任命され話題となった。「なぜ“非常勤”なのかというと、『そのほうがタイミング次第でいつでも現地に行けるから』と志村さんが考えたためだそうです。また志村さんは等身大パネルや、志村さんへの意見箱『志村箱』を吉浜駅に設置することを提案。そんな『少しでも被災地に寄り添いたい』という気持ちを街の人たちは嬉しく思い、『元気付けられた』と語る人もいました」(全国紙記者)また志村さんが愛されたのは、誰にでも気さくで優しかったからだという。「『バカ殿』で震災を特集した際、現地の曲芸師に『じっくり芸を見せてくださいね』と紳士的に挨拶。その姿に感激する声が上がっていました。さらに志村さんは、被災地の子供たちをたびたび楽しませては笑顔に。子供が大好きな志村さんは『少しでも震災を忘れてくれたらいいな』と話していました」(前出・スポーツ紙記者)この次の10年、そしてその先もーー。志村さんは、被災地のことを天国から見守っていることだろう。
2021年03月12日日本に甚大な被害をもたらした東日本大震災から10年が経った、2021年3月11日。特別番組『NNN未来へのチカラ』(日本テレビ系)では、被災地の現在について特集しました。番組では、報道番組のキャスターたちが集結し、東日本大震災の発生後に取材した被災者のもとを再び訪れる様子を放送。そこで1人のアナウンサーが見せた涙が反響を呼んでいます。漁師の男性の言葉に、藤井貴彦アナウンサーが涙震災後の2011年3月23日に、宮城県の気仙沼市を訪れた藤井貴彦アナウンサー。そこで、震災により船を失った60代の漁師の男性と出会います。男性は当時、漁師を続けていくことを宣言し、「生きることだ。仕事に対して強い熱意を持っていれば、絶対勝つから」と力強く口にしていました。10年後、藤井アナウンサーは男性に対し、電話取材を行います。2021年現在も漁師を続けていた男性は、藤井アナウンサーに、震災直後の想いをこう語ったのです。なんにしても、自分が生きなきゃ勝てないですからね。自分が生きなきゃ、人の役にも立たないしね。だから生きることです。NNN未来へのチカラーより引用電話越しに届いた力強い言葉に、藤井アナウンサーはあふれてくる涙をこらえることができませんでした。震災から10年間、藤井アナウンサーは取材した男性のことをずっと気にかけていたのでしょう。男性の元気な声を聞けた安堵や、生きることへの希望が見えるコメントに、熱い気持ちがこみ上げたのかもしれませんね。視聴者からは、男性の言葉や、涙を流す藤井アナウンサーの姿に、反響が寄せられました。・藤井アナウンサーの涙に、もらい泣きしてしまった。・いつも冷静で穏やかな藤井アナウンサーが泣いていると、胸に迫るものがある。・藤井アナウンサーの丁寧な語り口調や相づちから、本当に被災者の心情に寄り添っているのが分かる。・男性の「生きること」という力強い言葉に心を動かされた。言葉でいい表せないくらいかっこいい生き方だと思う。生きていれば、つらく悲しいことだけでなく、大きな喜びに出会えることもあるでしょう。人生において信じる気持ちや前向きな熱意は、時に私たちの心を支えてくれるはずです。[文・構成/grape編集部]
2021年03月12日長崎県対馬市にある、陸上自衛隊対馬駐屯地。陸上自衛隊の中では、2番目に小さな駐屯地だといいます。2011年3月11日に起きた、東日本大震災では多くの自衛隊が派遣されました。派遣された自衛隊員の数は、最大10万人を超えるほどだったそうです。対馬駐屯地に所属する自衛隊・対馬警備隊も支援に駆け付けました。対馬警備隊は、宮城県気仙沼市で入浴支援を実施。約4万3千人の被災者が入浴したといいます。沿道からは感謝の声も寄せられたとのこと。当時の写真をTwitterに投稿しました。【東日本大震災から10年】 対馬警備隊は、当時、宮城県気仙沼市において野外入浴セットを開設し、約43,000名に対して入浴支援を実施しました。今でも、東北の被災された方を思い、一日も早い復興を願って対馬から応援しています。 #対馬駐屯地 #東日本大震災 #気仙沼市 pic.twitter.com/vOPdRtmA1y — 陸上自衛隊対馬駐屯地(公式) (@camp_tusima) March 11, 2021 貴重な入浴に、利用者も笑顔で写っています。敬礼する子供たちからの「救援ありがとう」の言葉や、段ボールに描かれた「いつもありがとう」というメッセージに、見ているこちらまで心が震えますね。この言葉は、疲れている隊員たちを癒してくれたようです。投稿には「感謝です」「ありがとうございました」といった声が寄せられました。東日本大震災だけでなく、さまざまな災害が起きた時にいち早く活動をしてくれる自衛隊。感謝の想いを忘れずに、しっかりと伝えていきたいですね。[文・構成/grape編集部]
2021年03月12日2011年3月11日に発生した未曾有の災害・東日本大震災から10年。マイナビニュースでは、この震災に様々な形で向き合ってきた人々や番組のキーパーソンにインタビューし、この10年、そしてこれからを考えていく。現在フリーアナウンサーの大島由香里(37)は、当時フジテレビ入社5年目だった。2011年2月22日に発生したニュージーランド地震で現地を取材し、帰国してから1週間半後にフジテレビ本社で大きな揺れを感じる。フィールドキャスターとして、震災発生直後に足を踏み入れた宮城県女川町。葛藤しながらも取材する中で、ある男性からかけられた言葉が今でも胸に残っている。○■ニュージーランド地震の取材から帰国フジテレビ2階のトイレにいるときに揺れました。ニュージーランドの地震を取材していて、現地で2週間滞在してホテルでは雑魚寝。今にも崩れそうな家々の中で取材、中継をして。そこから帰って来てからの1週間半後だったんですよね。ニュージーランドでも余震にずっとうなされてたので、怖くてすぐにトイレから出られませんでした。携帯を見ても繋がらない状態。おそるおそるトイレから出たら、2階のメイク室から安藤優子さんが飛び出して来ました。「大島! エレベーターが動かないから、今から階段で報道センターまで行くよ!」「すぐに情報取って!」非常階段で上がりながら調べても、なかなか全容が把握できない。「東北の方で地震みたいです!」と伝えながら12階の報道センターまで上がって、安藤さんはそのまま特番の中継に。「私はどうしよう」取材に行きたくても電車や車も使えない。それから3日間ぐらい会社に寝泊まりしました。震災発生から1週間ほど経って取材に行けるようになり、ようやく現地に。言葉にならないほど悲惨な状況でした。○■声をかけるのが私の仕事最初に行ったのが女川だったと思います。女川には湾があって、そこから十数メートルの津波が来て、多くのものが流されていました。水は引いていましたが、鉄骨だけになった建物の周りでは、住人の方々がいろいろなものを探していました。家族も含めて。そこで声をかけるのが私の仕事です。涙が込み上げる私を見て、あるスタッフさんが「泣くな。お前のことじゃないだろ」と叱ってくれて。もともと自分は前に出ていくタイプではないので、どうしても感情移入して足がすくんでしまう。人の気持ちばかり考えてしまうので、自分にこういう取材は向いてないんじゃないかと痛感した瞬間でもありました。「本当に申し訳ないです。こんな時に」そうやって声を掛けながら取材していると、50代ぐらいの男性に「こんな大変なところまで来てくれて、申し訳ないね」みたいに謝られたことがありました。「こちらこそこんなタイミングに、ずかずかと入って来て図々しく聞いてすみません」という私に、その男性は「いいよ、いいよ。現状を映してほしいし」と。そして、その後の言葉が今でも忘れられません。「大変だろうけど、がんばってね」それは私たちが、被災された方々に対して切に願うこと。女川でお会いしたその方の言葉が、ずっとずっと忘れられなくて。その後は亘理町や山元町、石巻にも行きました。一番長期にわたって取材したのは南三陸町です。『ニュースJAPAN』で毎年行かせてもらって、防災庁舎が年々朽ちていくのを見ながら、「こうやって記憶が薄れてしまうのはよくない」という思いで一生懸命伝えるんですけど、自分自身の記憶も薄れていくのを感じて。どうすれば記憶が消えないようにできるのか。それはずっと考え続けているテーマです。当時、震災後に南三陸町を離れる人がいる中で、出産して子育てをする選択をした若いご夫婦がいて、そのお二人に話をうかがった時に「自分たちは残る」とおっしゃっていて。当時の私は独身でした。「自分たちは残る」がどれだけ重く、力強い意志のもとで発せられた言葉だったのか。自分に娘が生まれた今、その言葉の重みを今更ながら感じます。○■まだまだやるべきことがある子ども世代にどうやって残し、伝えていくのか。それが難しくて。2月13日に福島県沖地震が発生した時、ちょっと遅めの時間だったんですけど娘が「お茶飲みたい」というから水筒を洗ってたんですよ。そしたらグラグラっと揺れて、娘のところに駆けつけて「こわいよね」と抱きしめたら、お風呂のお湯が揺れているのに気づいて「バシャーンってなってる!」って喜んでたんですよね。「お湯がバシャーンってなってるね。でも、これは地震といって大変なことでね」と言い聞かせたところで、3歳だからまだ何も分からないかもしれない。私は、娘にどうやって伝えていくべきなのか。日頃の備え以外にも、まだまだやるべきことがあると痛感しました。防災グッズは用意はしていますが、今すぐに家から出ないといけない状況になると、足りないものがどんどん思い浮かんで来て。なってみないと分からないけど、なってみるともう遅い。そういうことすら気づけなかった。これは記憶が薄れ、油断していることの表れです。そういう自分にも絶望してしまいました。3月11日14時46分。震災発生以来、何度も現場取材をさせて頂いた私の記憶。「取材してくれてありがとう」や「がんばってね」と逆に励まされた恵まれた身としては「私なんかが」と思わずに、「現場を見てきた私だから」と前のめりで声を上げ続けることも必要。そう自分に言い聞かせたいです。いつか娘に東日本大震災について聞かれたら、きちんと向かい合って座って、伝えるべきことを伝えたい。娘と一緒に備えていこうと思います。■プロフィール大島由香里1984年1月24日生まれ。神奈川県出身。成城大学卒業後、2007年4月にフジテレビに入社。『FNNスーパーニュース』、『ニュースJAPAN』、『あしたのニュース』、『新報道2001』などを担当。2018年からはフリーアナウンサーとして活動し、『バラいろダンディ』(TOKKYO MX)でアシスタントを務めている。2021年2月に1st写真集『モノローグ』(講談社)を発売、YouTube公式チャンネル『大島由香里に乾杯 !』を開設した。
2021年03月12日人気キャラクター・スヌーピーでおなじみの漫画『PEANUS』(チャールズ・M・シュルツ著)を原作としたミュージカル『きみはいい人、チャーリー・ブラウン』が2021年3月30日(火)からシアタークリエで開幕する。初日まで3週間と迫った3月9日、チャーリー・ブラウン役の花村想太(Da-iCE)、スヌーピー役の中川晃教ら出演者が、東京・南町田グランベリーパーク内にあるスヌーピーミュージアムで行われた取材会に出席した。2017年に引き続きスヌーピーを演じる中川は「“犬”として舞台上で見えた景色が今でも焼きついている。物語の中で大活躍するスヌーピーを役者として、人間として、全身全霊で体現したい」と意気込む。また、ミュージカル出演が本作で2作目となる花村は「毎日ワクワクしながら過ごしている。小さな幸せにも大きな幸せにも気づける作品。このご時世で恐縮ですが、劇場に足を運んでくだされば」と話していた。3月11日で東日本大震災から10年となることや、このコロナ禍で感じたエンターテイメントのあり方について報道陣から問われると、中川は、自身が仙台市出身で、父の故郷が宮城県気仙沼市だということを明かした上で、「この経験においては、あっという間だったという言葉がどうしても出てこない。復興という言葉の通り、明るい未来を信じて、でもどこかで現実も見つめながら。なんとか一歩一歩向かっている」と語った。「未来に向かって、歌い続けていきたい。頑張り続けていきたい」と思いを新たにした。一方の花村は、幼少期に阪神淡路大震災で被災し、10年前の東日本大震災も経験。「両方を経験している若い世代として、その恐ろしさや当時の大変さを下の世代に伝えていくことは大切だなと思う。当時はデビュー前で、何もすることができなかったらこそ、今このエンターテイメントでたくさんの方に希望を与えられるような存在になれていたら」と話していた。花村のコメントを受けて、中川は「僕たちは『世を幸せにする』という共通の使命を持っているんですね」と語りかけていた。そのほかの出演者は岡宮来夢、宮澤佐江、林愛夏、植原卓也、大和悠河(声の出演)。東京公演は4月11日(日)まで。大阪公演は4月15日(木)〜18日(日)、サンケイホールブリーゼ。愛知公演は4月20日(火)、日本特殊陶業市民会館ビレッジホール。長野公演は4月23日(金)、長野市芸術館メインホール。チケット発売中。チケットぴあでは東京公演の2021/3/11(木) 10:00よりポストカード(メインビジュアル)付チケットを販売中。取材・文・撮影:五月女菜穂
2021年03月11日2021年3月11日、タレントのデーブ・スペクターさんが、Twitterを更新。東日本大震災にまつわる投稿に、反響が上がっています。デーブ・スペクターの投稿に、感謝の声同日、東日本大震災が発生して、ちょうど10年が経ちます。デーブさんは、節目となる日に、次のようなメッセージを投稿しました。東日本大震災からちょうど10年を迎えました。僕はこれからもずっと、日本の皆さんと一緒にいます。あまり面白いことが言えないから笑わせることはなかなか出来ないけど、辛い時、苦しい時は、僕を笑い者にしてください。今日もオチはありません。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2021 「笑わせることはできないけど、つらい時、苦しい時は、僕を笑いものにしてください」とつづったデーブさん。2011年3月11日、東日本大震災で発生した津波や原発事故の被害に、多くの人が胸を痛め、自然災害の恐ろしさを再認識しました。特に惨状を目の当たりにした被災者は、被災した日が近付くと、当時の記憶がフラッシュバックする人もいるでしょう。デーブさんはそんな人々を想い、寄り添うような温かい言葉で元気付けようとしたのです。投稿を見た人々からは、感謝の声が寄せられています。・オチがなくても、落ち着くことができるツイートを、ありがとうございます。・デーブさんの優しさに心がほぐれます。これからも私たちを笑顔にさせてください!・震災が発生した当時、アメリカに戻らず、日本で震災の様子を刻々と伝えていたことを知っています。本当にありがとう。ちなみに、デーブさんは東日本大震災の翌年である2012年より、毎年ツイートをし、人々に元気を届けています。過去のツイートはこちら2012年僕は大好きな日本が元気を取り戻す日までクールギャグを続けるつもりです。少しでもクスッとして頂けたら嬉しいです。犠牲者の方々のご冥福と、被災地の一日も早い復興を、心からお祈りいたします。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2012 2013年あの3月11日から丸2年が経ちました。犠牲者のご冥福と被災地の復興をお祈りいたします。少しでも笑顔がこぼれるように僕はこれからもギャグをTweetするつもりです。例え笑い者になっても、それで日本が明るくなるなら嬉しいので。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2013 2014年あの日からちょうど3年。僕は被災地の皆さんのことを一日も忘れたことはありません。そして日本がますます大切な存在になっています。皆さんさえ良ければこれからも一緒に歩いていきたいです。すみません、特にオチはありませんm(_ _)m— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 11, 2014 2015年3月12日になりました。昨日は僕にとっても忘れることの出来ない日でした。お亡くなりになった方々のご冥福と、被災された全ての皆さんの心の傷が癒えることをお祈りしていました。そして、今日も福島第一原発で作業して下さっている皆さん、ありがとうございます。特にオチはありませんm(__)m— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 11, 2015 2016年東日本大震災から5年。僕がツイッターを始めたのは、被災者の皆さんに少しでも笑顔になってほしかったからです。今日も福一の現場では、作業員が一所懸命働いています。全員に笑顔が戻るまで、僕はクールギャグをつぶやき続けます。すみません、オチはありません。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2016 2017年また3月11日がやってきました。僕は被災地の方々や原発事故の処理を続けている皆さんのことを忘れたことはありません。大好きな日本が笑顔で溢れるなら僕は喜んで笑い者になります。すみません、オチはありませんm(_ _)m— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 11, 2017 2018年また3月11日になりました。僕の心はいつも日本の皆さんの元にあります。ユーモアがあれば原発がなくても世の中を明るくできます。辛い時や苦しい時は僕を笑いものにしてください。すみません、オチはありませんm(_ _)m— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2018 2019年あの日から8年が経ちました。それからも、日本各地で自然災害が相次ぎ、いまだに苦しんでいる方もたくさんいると聞きます。被災者の皆さん、辛いことがあったら、遠慮なく、僕を笑い者にしてください。僕の心は、いつも皆さんと共にあります。すみません、オチはありません。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2019 2020年9回目の3月11日がやってきました。亡くなられた皆さまのご冥福をお祈りします。被災地の方々、フクイチの作業員、そして、新型コロナに脅かされてる日本の皆さん。ささやかですが、僕を笑い者にしてください。ユーモアがあれば、電気がなくても世の中を明るくできます。すみません、オチはありません。— デーブ・スペクター (@dave_spector) March 10, 2020 2016年のツイートで、デーブさんはTwitterを始めたきっかけを、「被災者のみなさんに少しでも笑顔になってほしかったから」と明かしています。アメリカ出身でありながら、日本の人々を想い、大切にするデーブさんの言葉に、多くの人が心を打たれました。[文・構成/grape編集部]
2021年03月11日2021年3月11日で、東日本大震災発生から10年が経ちます。この地震に見舞われ被災をした一人、フィギュアスケーターの羽生結弦選手。同日サンケイスポーツは、羽生選手が被災した人々へ向けてつづった『メッセージ』を公開しました。羽生結弦「でも、やっぱりいわせてください」震災から10年を経てもなお、故郷へ戻ることができない人や行方が分からない人も多くいます。仙台市の自宅が全壊し、自身も避難生活を経験したという羽生選手。さまざまな心の傷を負いながら、日々生きる人たちへこのようなメッセージを贈っています。最近は、あの日がなかったらとは思わないようになりました。それだけ、今までいろんなことを経験して、積み上げてこれたと思っています。そう考えると、あの日から、たくさんの時間が経ったのだなと、実感します。こんな僕でもこうやって感じられるので、きっと皆さんは、想像を遥かに超えるほど、頑張ってきたのだと、頑張ったのだと思います。すごいなぁと、感動します。数えきれない悲しみと苦しみを、乗り越えてこられたのだと思います。(中略)本当に、10年間、お疲れ様でした。10年という節目を迎えて、何かが急に変わるわけではないと思います。まだ、癒えない傷があると思います。街の傷も、心の傷も、痛む傷もあると思います。まだ、頑張らなくちゃいけないこともあると思います。簡単には言えない言葉だとわかっています。言われなくても頑張らなきゃいけないこともわかっています。でも、やっぱり言わせてください。僕は、この言葉に一番支えられてきた人間だと思うので、その言葉が持つ意味を、力を一番知っている人間だと思うので、言わせてください。頑張ってくださいあの日から、皆さんからたくさんの「頑張れ」をいただきました。本当に、ありがとうございます。僕も、頑張りますサンケイスポーツーより引用羽生選手は、復興に向けて懸命に生きてきた人々へ、簡単にはいえないことを理解しつつも、「頑張ってください。僕も、頑張ります」という言葉を改めて贈ったのです。震災だけではなく、世界という舞台でさまざまなプレッシャーや厳しい練習に耐えてきた羽生選手。誰よりも「頑張れ」の持つ力を知っている、羽生選手だからこそいえる言葉に、ネット上ではさまざまな声が上がっています。・電車の中で読んでいて、涙が出そうになりました。まだまだ復興の途中。一歩ずつですね。・あの時から「頑張れ」って言葉が嫌いでした。でも、羽生くんの「頑張れ」は何か違うものを感じますね。ありがとう。・羽生さんの頑張る姿に、どれだけの人が励まされたことか…。失ったものは元には戻らないけど、少しずつ前へ進んでいきたいと思えました。10年が経過してもなお、被災した人々は、あの時の傷跡と向き合いながら生きています。私たちがやるべきことは、震災の経験を風化させることなく、次の世代へ正しくつなげていくことだといえるでしょう。投稿全文はこちら何を言えばいいのか、伝えればいいのか、分かりません。あの日のことはすぐに思い出せます。この前の地震でも、思い出しました。10年も経ってしまったのかという思いと、確かに経ったなという実感があります。オリンピックというものを通して、フィギュアスケートというものを通して、被災地の皆さんとの交流を持てたことも、繋がりが持てたことも、笑顔や、葛藤や、苦しみを感じられたことも、心の中の宝物です。何ができるんだろう、何をしたらいいんだろう、何が自分の役割なんだろうそんなことを考えると胸が痛くなります。皆さんの力にもなりたいですけれど、あの日から始まった悲しみの日々は、一生消えることはなく、どんな言葉を出していいのかわからなくなります。でも、たくさん考えて気がついたことがあります。この痛みも、たくさんの方々の中にある傷も、今も消えることない悲しみや苦しみも…それがあるなら、なくなったものはないんだなと思いました。痛みは、傷を教えてくれるもので、傷があるのは、あの日が在った証明なのだなと思います。あの日以前の全てが、在ったことの証だと思います。忘れないでほしいという声も、忘れたいと思う人も、いろんな人がいると思います。僕は、忘れたくないですけれど、前を向いて歩いて、走ってきたと思っています。それと同時に、僕にはなくなったものはないですが、後ろをたくさん振り返って、立ち止まってきたなとも思います。立ち止まって、また痛みを感じて、苦しくなって、それでも日々を過ごしてきました。最近は、あの日がなかったらとは思わないようになりました。それだけ、今までいろんなことを経験して、積み上げてこれたと思っています。そう考えると、あの日から、たくさんの時間が経ったのだなと、実感します。こんな僕でもこうやって感じられるので、きっと皆さんは、想像を遥かに超えるほど、頑張ってきたのだと、頑張ったのだと思います。すごいなぁと、感動します。数えきれない悲しみと苦しみを、乗り越えてこられたのだと思います。幼稚な言葉でしか表現できないので、恥ずかしいのですが、本当にすごいなと思います。本当に、10年間、お疲れ様でした。10年という節目を迎えて、何かが急に変わるわけではないと思います。まだ、癒えない傷があると思います。街の傷も、心の傷も、痛む傷もあると思います。まだ、頑張らなくちゃいけないこともあると思います。簡単には言えない言葉だとわかっています。言われなくても頑張らなきゃいけないこともわかっています。でも、やっぱり言わせてください。僕は、この言葉に一番支えられてきた人間だと思うので、その言葉が持つ意味を、力を一番知っている人間だと思うので、言わせてください。頑張ってくださいあの日から、皆さんからたくさんの「頑張れ」をいただきました。本当に、ありがとうございます。僕も、頑張ります2021年3月羽生結弦サンケイスポーツーより引用[文・構成/grape編集部]
2021年03月11日東日本大震災から10年という節目を迎えた、2021年3月11日。一人ひとりが改めて、当時の出来事や想いを思い出していることでしょう。システムキッチンのメーカーであるクリナップ株式会社(以下、クリナップ)も、福島県いわき市にある8か所の工場が被災。10年越しに、当時の感謝を伝えるメッセージを新聞広告として掲載しています。変わらない想い食べることは生きること。たくさんの人の毎日を、クリナップはキッチンから支えてきました。そんなクリナップが、被災した際には逆に多くの人たちに助けられたといいます。読むと、胸に自然と温かいものが込み上げる広告をご覧ください。クリックすると画像を拡大しますうれしい時も、悲しい時も。どんな時でも、生きていればお腹はすく。なにか食べなきゃ。力をつけなきゃ。そして人はキッチンに立つ。クリナップは、そんな大切な場所をつくらせてもらっています。10年前、福島県いわき市にある私たちの工場は被災しました。復旧作業中に余震が起こり、心が折れそうになった私たちの支えは、本当は困るのに「できるまで待つよ」と言ってくださったお客様たち、そして一緒に被災した地元の皆さんでした。つらい時に互いを思い、支えようとする心。困難を乗り越える力はそれなんだと、その時、胸に刻みました。そして10年後、奇しくも私たちは再び試練の中にいます。きっとみんなで乗り越えたいから、思いやる言葉をかけあいたい。クリナップはこれからも、大切な場所をつくり続けていきます。出荷再開まで、約1か⽉かかったクリナップ。復旧の途中で、震度6弱という余震に作業を台なしにされた時の悲しみは、察するに余りあります。そんな極限状態の中、自身も大変だったはずの人たちがクリナップを支えました。人と人とのつながりが見える広告に、胸を打たれますね。広告は全部で6パターン。「ありがとう。あしたにむかって、いただきます。」以外に、「あしたがくるよ、さ、ごはんにしよう。」「あったまったら、ちからがでたよ。」というメッセージのバージョンもあります。広告を見た人からは、「被災者ではないけど、やはり今日は特別な日」「心にしみました」「これはいい広告」などのコメントがネット上に投稿されています。毎日の生活を大切に。「思いやり、助け合いながら、みんなと明日を作っていきたい」と、改めて思わされます。みんなも感謝を伝えていこうクリナップは、普段なかなかいえないキッチンやごはんにまつわる感謝の投稿を募集する『伝えよう、キッチンのありがとうキャンペーン』も実施中!参加方法は簡単で、キャンペーンアカウントをフォローし、『#キッチンのありがとう』を付けてエピソードを投稿するだけでOK。ベストエピソードに選ばれた人には、最高級ステンレスシステムキッチン『CENTRO』をはじめ豪華賞品がプレゼントされます。あなたも震災から10年という節目に、大切な人との食卓を見つめ直してみてはいかがですか。\伝えよう、キッチンのありがとう/システムキッチンCENTROがもらえるキャンペーン実施✨応募は簡単① @arigatou_cl をフォロー② #キッチンのありがとう のタグを付け、キッチンやごはんにまつわる「ありがとう」をツイート4月18日22:00まで❗️— クリナップ「伝えよう、キッチンのありがとう」 (@arigatou_cl) March 11, 2021 [文・構成/grape編集部]
2021年03月11日東日本大震災から10年になる、2021年3月11日。震災の復興支援を続けてきた、お笑いコンビ『サンドウィッチマン』の伊達みきおさんは、ブログを更新し、東北への想いをつづりました。伊達さんは、震災当日も含め、毎年3月11日は宮城県気仙沼市を訪れているとのこと。ブログでは観光キャラクター『ホヤぼーや』とのツーショット写真を公開し、気仙沼市の現状を伝えています。震災から10回目の3月11日。当日もいたから、11年連続で気仙沼に来てる事になるのか…。もう、すっかり気仙沼にも知り合いが出来たり良く行くお店もあったり、今は気仙沼に来るのが楽しみで仕方ない。素敵なお店や美味しいお店も来る度に増えて、新・気仙沼になっている。変わらないのは、人の温かさと魚の旨さ!日本屈指の港町は健在だ。震災直後、泣きながら前を向いて生きてきた地元の方々を見てきたから…今、そんな方達と笑顔で会うと、10年という時間の経過も感じる。サンドウィッチマン 伊達みきおオフィシャルブログーより引用また、震災から10年目を迎えるにあたり、改めて決意の言葉をつづっていました。今日で10年。歯を食い縛り、本当によく頑張ってきました。この地に、縁もゆかりも無いボランティアの方々が泥まみれになって助けてくれたから今がある。縁もゆかりもある我々は、もっと懸命に頑張らないといけない。じゃないと、助けて下さった方々に失礼だ。たった10年経っただけ。行方不明者はまだ2500人以上。捜索は今も続いている。整理がつかない方も多い。遺族は10万人を超える。これからも、我々は何も変わらず共に生きて行きます。サンドウィッチマン 伊達みきおオフィシャルブログーより引用この10年、被災地の人たちは、いろいろな想いを抱えながら懸命に生きてきたことでしょう。人々の努力があって、少しずつ復興が進んでいます。その一方で、未だに行方不明者も多く、福島第一原発事故などの影響によって同月4月現在も4万人以上が避難生活を余儀なくされている状況です。伊達さんの言葉には、「震災を過去のものにしない」「生き残った者として伝えていく」という強い決意が感じられます。コメント欄には、さまざまな声が寄せられていました。・10年が経つなんて信じられません。被災した人々が頑張っている姿にいつも励まされています。・ずっと東北を励まし続けてくれて、ありがとうございます。これからも応援しています。・宮城県や東北、被災地について教えてくれてありがとうございます!私もずっと心を寄せていきたいです。災害はまたいつ起きるか、分かりません。時間の経過とともに、震災の記憶や教訓が薄れることのないよう、日々心に留めておくことが大切ですね。伊達さんの投稿は、多くの人の心に響きました。[文・構成/grape編集部]
2021年03月11日公益のために私財を寄付した人に与えられる、紺綬褒章(こんじゅほうしょう)。2021年3月9日付の政府官報を通して、ロックバンド『X JAPAN』のYOSHIKIさんが、紺綬褒章を受章したことが明らかになりました。このニュースを受け、ネット上では、政府官報に記載されたYOSHIKIさんの本名が注目を集めています。紺綬褒章のニュースに、YOSHIKI自ら本名を認める2020年4月に、新型コロナウイルス感染症と最前線で闘う医療従事者のために『国立国際医療研究センター』へ1千万円の寄付をしたYOSHIKIさん。これまでにも、東日本大震災の復興支援として1千万円を寄付するなど、積極的に慈善活動を行ってきました。そういった活動を評価され、紺綬褒章を受章したYOSHIKIさんは、次のようなコメントを発表。紺綬褒章を受章し、恐縮しています。こんな自分ですが今後も支援活動を続けられたらと思っています。 そしてその活動によってさらにチャリティーの輪が広がれば嬉しいです。ありがとうございます。@YoshikiOfficialーより引用政府官報には、芸名であるYOSHIKIではなく、林佳樹(はやし・よしき)という名前で記載されています。ネット上で「本名では?」といった声が上がったことを受け、YOSHIKIさんは自ら本名であることを認めたのです。はい、本名です。ちなみに普段は全てX(エックス)です。。!Yes, it’s my real name!@YoshikiOfficialーより引用ちなみに、普段のYOSHIKIさんは、生年月日や血液型など、すべての個人情報を『X』と表記しています。本名を認めたのは、YOSHIKIさんなりのフォローといえるでしょう。YOSHIKIさんの丁寧なコメントに対し、ネット上ではさまざまな声が寄せられました。・てっきりYOSHIKIで載っているのかと思った!本名なのか。・素敵!YOSHIKIさんの、優しい人柄を表しているかのような本名ですね。・すごい方にも関わらず、「普段はすべてXです」といっちゃうような、おちゃめなところも大好き。紺綬褒章の受章に対し「恐縮です」と前置きし、今後も支援活動を続けていく意思を明かしたYOSHIKIさん。謙虚さを持ち合わせた誠実な人柄がうかがえるエピソードですね。才能はもちろん、そういったキャラクターも、世界中のファンを魅了するゆえんでしょう![文・構成/grape編集部]
2021年03月11日2011年3月11日に東北地方を襲った東日本大震災から、10年が経ちました。地震や津波によって家屋が倒壊し、数多くの死傷者が発生した当時の記憶は、今も多くの人の脳裏に刻み込まれています。レディー・ガガ、3月11日に合わせてメッセージを投稿2021年3月11日、アメリカの歌手であるレディー・ガガが日本に向けてメッセージを投稿しました。Aishitemasu Japan pic.twitter.com/w7KicgJhvP — Lady Gaga (@ladygaga) March 10, 2021 地震と津波の衝撃的な映像をニュースで見た日を、昨日のことのように思いだせます。あの日、自分に何ができるかを考えたくさん電話をかけました。何年もかけて、再び美しい街を取り戻していく様子を私は見てきました。日本の人々の強さ、優しさ、そしてお互いへの愛に、私はとても尊敬の念を抱いています。その姿は、今、世界中のパンデミックの最前線で戦っている人々に希望を与えていることでしょう。しかし、まだ多くの人が災害で負った心の傷を抱えていると思います。だからどうか、お互いに優しく、愛し合い、支え合い続けてください。私は日本が、そして世界がよりよくなることをいつも祈っています。私たちはまだコロナウイルスの難しい時期に生きています。どうか体調に気を付けて、周りの人を気遣いましょう。また日本に帰ることができる日を、楽しみにしています。@ladygagaーより引用(和訳)メッセージの最後には、日本語で「愛してます、日本」としめくくり、日本にエールを送ったレディー・ガガ。10年経った今も、こうして日本を気にかけてくれる姿に、多くの人が勇気をもらったことでしょう。【ネットの声】・レディー・ガガの言葉、まっすぐで誠実でウルッときた。・真っ直ぐ発せられる言葉に強い愛情を感じます。・日本時間の3月11日にあわせて投稿してくれたんだね…ありがとう。どんなに時が経とうとも、東日本大震災で負った心の傷や当時のつらい記憶はなくなりません。街並みが元通りになろうとも、日常が戻ってきたとしても、本当の意味での復興はこの先もずっと続くのでしょう。しかし、こうして今も世界のどこかで応援してくれている人がいると思うと、心強く感じられます。[文・構成/grape編集部]
2021年03月11日「8年前に訪問させていただいたとき、仮設住宅やウッドテラスで被災されたみなさんとお話しさせていただいたことが、とても印象に残っています。その後、みなさんいかがかしらと思って過ごしてまいりましたが、ラグビーワールドカップの開催など嬉しいニュースもありました」3月4日、天皇皇后両陛下は岩手県の被災地をオンラインで訪問された。釜石市長との懇談で、雅子さまはこのように、8年前の訪問の思い出を語られた。両陛下は’13年11月、岩手県を1泊2日の日程で訪問されている。釜石市の仮設住宅で両陛下を出迎えた福士愛さん(26)も、雅子さまにお声をかけられた一人だ。釜石の海沿いにあった福士さんの自宅は、大津波で跡形もなく流された。雅子さまは、当時9カ月だった長男の優斗くんを抱いていた福士さんに近寄り「寒くないですか?大丈夫ですか?」とお声がけされた。さらに優斗くんについて「何カ月ですか?」「元気でお過ごしくださいね」と優しくおっしゃったという。そして陛下からも「仮設の暮らしはどうですか?」「大変ですよね」とのお言葉があったそうだ。福士さんの家族は、いまでは小学2年生になった優斗くんの下に弟と妹が増えて5人暮らしに。2年ほど前に仮設団地から県営災害住宅へと引っ越したという。「雅子さまは視線の高さを合わせ、ゆっくりと話しかけてくださいました。優斗には、両陛下がテレビに映ると『あなたも会ったことがあるんだよ』と伝えるのですが、いまはまだ、あまりわかっていないみたいですね(笑)今年で10年になりますが、東日本大震災のことを風化させてはいけないと思います。天皇陛下と雅子さまが長い間被災地のことを気にかけてくださっていることは本当にありがたく、心の支えになっています」天皇陛下も先日の会見で、2月に福島県沖でマグニチュード7を超える地震があったことを受けて、次のように述べられている。「未曽有の災害がもたらした被害の大きさが改めて思い起こされるとともに、東日本大震災については、過去のこととしてではなく、現在も続いていることとして考える必要があることを改めて感じました」地震発生のために延期されてしまったが、両陛下は岩手県だけでなく、福島県と宮城県にもオンライン訪問される予定となっている。天皇陛下と雅子さまはこれからも被災地に心を寄せ続けていかれるだろう。「女性自身」2021年3月23日・30日合併号 掲載
2021年03月11日お笑いコンビ・とんねるずの石橋貴明が10日、都内で行われた「『AIG×』『MLB CUP 2021』特別プロジェクト発足発表会」に元プロ野球選手の斎藤隆とともに出席した。AIGジャパン・ホールディングスは、小学4年生と5年生のリトルリーグを対象にしたMLBカップの特別スポンサーとして特別プロジェクトを発足。毎年全国大会を宮城県石巻市で開催しているが、東日本大震災から10年が経過した今年も8月に石巻市で全国大会が予定されており、同社は野球教室のほか、子どもたちを全面的にサポートしていく。その発表会に名門・帝京高校の野球部員だった石橋貴明、被災地の宮城県出身で日本のプロ野球やアメリカMLBでも活躍した斎藤隆が登壇。小学生の頃から野球に親しんできたという石橋は「兄貴が野球をやっていまして、気づいた時に野球をやっていた状態でしたね。当時はジャイアンツの王さんや長嶋さんを見たり後楽園球場のカクテル光線がキレイで素晴らしいなと思いました。こういうところで野球がやりたいなと思って始めました」と振り返った。その石橋は甲子園に何度も出場している名門・帝京高校で3年間の厳しい練習に耐えて甲子園を目指した。「3年生は13人しか残りませんでした。あれから40年以上経ちますが、その13人はずっと友だちです。一つの目標を3年間ずっと追い続けた仲間はかけがえのない友だちですよ」と今でも友人関係が続いているそうで、「あれだけ厳しい練習に耐えられたら、社会人になって辛いことがあっても高校の時の練習より楽だと思うので乗り越えられます。そういう精神力は仲間とともに培っていきましたね」と帝京の練習は想像を絶する厳しさだったという。最後にMLBカップに出場する選手や野球少年にアドバイスも。石橋は「とにかくベストコンディションでやってもらいたいですね。みんなで声を出して元気でやって欲しいです」とエールを送り、「僕が4~5年生だった頃はルールも覚えてゲームに出られるようになり、毎日練習して日曜日の試合が楽しみでした。とにかく野球が一番楽しいスポーツたということを分かってもらいたいし、野球以外のスポーツにもチャレンジして欲しいと思います」と野球だけでなく、他のスポーツに挑戦する重要性も。また、例年MLBカップやリトルリーグに足を運んでいるという斎藤が「石橋さんに来ていただきたいですね」とお願いすると、石橋は「私で良ければ行きますよ」と快諾していた。
2021年03月11日「そうですね、もう、あの日から10年になるんですよねぇ……。でも、妹が夢枕に立ったことは、残念ながらこの10年間、一度もないんです。だがら、きっと天国でおふくろたちと、幸せに暮らしてるんじゃないですかね。そう思うようにしているんです」テレビやラジオの番組では常に元気いっぱい、決して笑みを絶やすことのない人が、少ししんみりとした表情を浮かべていた。生島ヒロシさん(70)。元TBSの人気アナウンサーで、1989年のフリー転身後もタレントとして、司会者として第一線で活躍を続けている。1998年に始まったのが、TBSラジオの朝の番組『生島ヒロシのおはよう定食』と『生島ヒロシのおはよう一直線』。ともにこの春、6千回目の放送を迎えるという人気の長寿番組で「朝一番、生島さんの声を聞き元気をもらう」というリスナーも少なくない。そんな生島さんは2011年、あの東日本大震災で故郷・宮城県気仙沼市で暮らしていた妹を亡くした。10年を経た今日に至っても、妹の夫は見つからないままだ。家族を亡くした悲しみを抱えながら、それでも生島さんはこの10年間、マイクに向かってしゃべることをやめなかった。機会あるごとにつらい思い出にも触れながら、あの日のことを発信し続けてきた。そこにあったのは、あの日、起きたことを決して風化させまいとする放送人としての矜持、そして、故郷・気仙沼への強い思いだった。■火の手が上がる気仙沼を見て血の気が引いて、全身が震えた2011年3月11日。この日、生島さんは宮城県仙台市のホテルで講演会に臨んでいた。「会社の社長さんたち、100人ぐらいを前に、東北を元気にするためには何が大切か、みたいな話をちょうど、していたんです」そして、午後2時46分。「揺れに揺れました。縦、横、それに突き上げるような揺れ、経験したことのない地震でした。すぐ脇にあった鉄製の大きなオブジェが倒れてきて、僕の頭をかすめるようにして演台の左端に当たって。あと数センチ、ズレて直撃していたら、僕もダメだったと思う」テーブルの下に身を隠した参加者を眺めながら、言った。「皆さんはそのまま隠れていてください。私はしゃべり続けます、アナウンサーは死ぬまでマイクを離しません!」精いっぱいの軽口に、テーブルの下からは笑い声も漏れた。まだ、わずかながら余裕があった。直後に講演会は中止になり、翌日、東京で仕事が入っていた生島さんは、すぐさま仙台駅に。しかし、鉄道は全線がストップ。飛行機もマヒしていた。「もう、タクシーしかない」と思ったが、それがなかなか捕まらない。マネージャーと雪が降り始めた町をさまようこと1時間半。ようやく、市内の自宅に帰る客を乗せたタクシーを捕まえ、頼み込んで乗せてもらった。そこから、タクシーを5台乗り継ぎ、東京を目指した。「道中も余震が何度もあって、渡っている橋がものすごい揺れる。太平洋が見えると、運転手さんから『仙台空港は全滅らしい、津波で人がバタバタと死んでる』、そう教えられて空恐ろしくなりました」郡山市内から乗ったタクシーにはカーナビがついていて、そこで発災後初めて、テレビのニュース映像を見ることができた。「真っ先に映し出されたのが、文字どおり火の海と化した気仙沼でした。アナウンサーの方が『津波に襲われた気仙沼の港から、火の手が上がっています』と」血の気がひいて、全身が震えた。“死んでもしゃべり続ける”はずの彼が、言葉を失っていた。「気仙沼には親戚も友人もたくさんいます。なにより、妹夫婦が気仙沼で暮らしていたからです」■地震の直後、妹から「明日は行けそうにない」。その後連絡は途絶えたじつは生島さんの妹・亀井喜代美さん(当時57)と夫は、まさに11日の午後、上京する予定だった。「前月に、妹と暮らしていた母が他界して。僕が東京にお墓を建てたので、妹たちが母の遺骨を持ってきて、納骨式というか四十九日の法要を行うことになっていた。11日は東京のめいの家に泊まって『お兄ちゃんのところには12日の朝に行くね』と言ってたんです」仙台をたって、およそ15時間。朝の7時にようやく、東京の自宅に帰り着くことができた。それでも、落ち着いてなどいられない。「地震の直後、妹の自宅からわが家に電話があったそうなんです。『明日は行けそうにないけど、改めてお邪魔します』って。電話を受けた妻は、津波警報が出たのを知っていましたから『なに言ってるの、喜代美ちゃん。そんなこといいから、早く逃げて』と伝えたそうなんですが……」その後、喜代美さんの電話はまったくつながらなくなった。生島さんはあちこちに連絡を入れ、妹夫妻の安否を尋ねた。「どこそこの避難所で見かけた」「いや、来ていない」「一度来たけど帰ったようだ」……情報は錯綜していた。「不安でしたけど、ポジティブシンキングの僕ですから、『絶対、大丈夫だ、喜代美は生きてる』ってずっと自分に言い聞かせ続けました。でも、タクシーの車内で気仙沼の映像を見た瞬間、すごく嫌な予感がしたのも確かなんです」3日後の14日早朝。生島さんはパーソナリティを務めるラジオ番組の生放送に。気持ちを奮い立たせて、マイクの前に座った。「自分の体験を踏まえながら地震のことをお伝えしたんですが、妹が見つかっていないということも話していくうちに、お通夜みたいな放送になってしまって……」すると、全国のリスナーからたくさんの、温かなメールが届く。「『つらいと思いますが、乗り越えてください』とか、『心中お察しします』という趣旨のメッセージをたくさんいただきました。なかには『生島さんから元気をもらえるから、私は生きていけます』って書いてくださった人もいて。放送中、それを読み上げてたら涙があふれてきちゃって。自分で『こんなことじゃダメだ、切り替えよう』って思いましたね」芸能界の友人たちも、生島さんを心配していた。「あれは震災から5日後ぐらいですね、アッコ(和田アキ子)さんが電話をくれて。いわゆる“黄金の72時間”、それを過ぎると助かる確率がガクンと下がるといわれる時間を過ぎてしまってましたから。『生島、つらいのはわかる、だけどこれはもう、腹をくくらないとダメだと思うよ』って。僕が現実を受け止められるように、背中を押してくれたんだと思います」生島さんは、次々に入ってくる被災地の新たな情報を整理し、リスナーに届けることに、ただひたすらに没頭した。そうすることが、不安と悲しみに押し潰されない、唯一の方法だった。■親しい人の死を悲しむ日を卒業し、前を向くことがいちばんの供養生島さんが故郷・気仙沼を訪れることができたのは、震災から1カ月ほどがたってのことだった。漁業が盛んで海の恩恵を受けて発展してきた町は、同じ海からの脅威の前に壊滅していた。「町並みが、変わり果ててしまってました。僕のなかの気仙沼は、空も海も真っ青、そんなイメージが強いんです。でも、その日は曇り空で、海もどす黒く沈んだ色をしていて。町じゅうがぬかるんでいて、それに臭いが強烈でした。打ち上げられた魚が腐敗した臭いと、油の臭いが混じったような……、あの臭いはこの先も、一生忘れられないと思います」生島さんが故郷の惨状を初めて目の当たりにした4月初旬。そこには震災から1カ月ぶりに、ようやく帰宅が許された人たちがいた。気仙沼市役所に勤めていた、生島さん旧知の2人。小中高と同級生だった廣野純朗さん(70)と、いとこの佐藤健一さん(67)だ。彼らが1カ月も帰宅できなかったのは重責を担っていたから。廣野さんは会計課、佐藤さんは危機管理課、それぞれの責任者だった。震災後、行方不明の妹夫妻の情報を得るため、生島さんが頼ったのが佐藤さんだった。「警察から入る亡くなった人、行方不明者の名簿、それに、避難所に寝泊まりしている人たちの名簿を夜中、手が空いたところでくまなくチェックしたんですが……。当時、パソコンも通信機器も使えないなかで、本当に残念ですが喜代美ちゃんの情報を見つけることはできませんでした」一方、混乱のただ中にあった市役所で、お金の管理を任されていたのが廣野さんだ。被災し稼働できなくなった金融機関の再開にも奔走した。また、支援金や義援金の窓口も。後日、生島さんが東京で集めた義援金の管理も任された。「私は会計課にいたので、生島も『あいつなら金のことも大丈夫だろう』と思ったんでしょうね」2人には、震災直後に脳裏に刻まれた、生々しい記憶がある。廣野さんのそれは、ある音だった。「潰れ、水につかった車のクラクションが、あちこちで突然鳴るんです。市役所が静まり返った夜中になると、よく聞こえてきて。まるで断末魔の叫びのような、それは物悲しい響きでした。あの音はいまも耳にこびりついてます」佐藤さんは、ある光景を目にして、悔しさにかられたという。「雪がやんだ後の、当日の夜。湾のほうにはまだ真っ赤な炎が見えるんです。でも、空を見上げると雲ひとつない夜空に星がさんぜんと輝いていて。ひどい皮肉ですよ。満天の星の下に広がっていたのは地獄絵図ですから。神様が本当にいたら、なぜこんなひどいことをするのかと、恨めしく思いました」一方、生島さんは東京に戻って以降、仕事をまっとうすることに、より傾注していった。「僕の役割ってなんだろう、そういつも考えてました。もう長いこと行方不明のままの肉親がいる、その悲しみを抱えながら、同じ境遇の人の痛みもわかりながら、伝えるべきことをきちっと伝える、それが放送人としての僕の務めだと、そう思うようにしていました」それまで以上に仕事にまい進した。そして、震災から3カ月が過ぎたある日、新聞記事に目が留まった。「それを読んで、僕はとても納得できた。その記事では、東北地方のお坊さんが『卒哭忌』という言葉を解説していたんです。卒哭忌とは百箇日法要のことで、親しい人を亡くし嘆き悲しむ日々からその日を境に卒業して、前を向き生きていきましょうということ。それが故人のいちばんの供養になる、とも書かれてました。つらいし、決して忘れることなどできません。でも、亡くなった人のぶんまで、2倍も3倍も生きることを謳歌する、それが遺った者のすべきことと僕は思うようになりました」■遺体安置所にも足を運んだ。その時の光景は目に焼き付いている。「震災のあのとき、私は東京にいました。たしか、高輪周辺にいて仕事のため移動中でした」こう話すのは、生島さんのめい・亀井理恵さん(42)。気仙沼で行方がわからなくなってしまった喜代美さんの長女だ。震災当時は生島さんが設立した芸能事務所のスタッフとして働いていた。「その晩から、両親は私の部屋に泊まりにくることになっていて、ほんの1時間前にも母と電話で話したんです。そのときは『あとでね』と電話を切ったんですが……」じつは地震発生から6分後の午後2時52分、理恵さんの携帯電話に、母からふたたび着信があった。しかし、どういうわけか着信音は鳴らなかった。直後に気づいて折り返したものの、母の電話につながることはなかった。留守番電話に母が残したのは、生島さんの妻に告げたのと、同様の言葉だった。「『揺れがひどいから今夜は行けない』と。あとでわかったんですが、生真面目な母らしく、この日、地震直後から私や弟、自分のきょうだいたち全員に、同じような電話を入れてるんです。まるでお別れのメッセージの代わりみたいに」東京の街なかでテレビを探した理恵さん。最初に目に飛び込んできたのは、仙台空港が津波に襲われている定点カメラの映像だった。「それを見た瞬間、気仙沼もひどいことになってるだろうなと、わかりました。でも、地震や津波が比較的多い土地柄、避難訓練はしょっちゅうやってましたから。両親も近くの避難所に、きっと逃げてくれているだろうと、そう思っていたんですが」しかし、いっこうに喜代美さんたちは見つからなかった。9日後の3月20日、理恵さんは弟や生島さんの弟・隆さん親子とともに、気仙沼に飛んだ。「ヘドロでぬかるみ、どろどろのなか、やっとたどり着いた実家は、基礎部分だけを残し、建物は跡形もなくなっていました。ものすごくショックで悲しいのに、不思議と涙は出ません。本当に悲しいときは泣けないものだと、知りました」理恵さんたちはその後、避難所を巡って両親を捜した。「そのころになると、助かった人たちは続々と連絡が取れるようになってきてました。でも、うちの両親は9日たっても音沙汰がない。それが何を意味するか、私なりに理解し、覚悟を持っていました」大勢の犠牲者が眠る、遺体安置所にも足を運んだ。「そこで、犠牲になられた方の顔写真を何枚も見て。東京の親族からは『トラウマになるから行かないほうがいい』とも言われましたが、私が行かなきゃ父母を捜せない、そう思ってましたから。でも、やはり衝撃的で目に焼き付いてしまって。いまもときおり、あの人たちの顔が浮かんできます」そんな思いまでして訪問した遺体安置所に、両親はいなかった。「少しホッとした」という理恵さん。その足で警察に出向き、DNAのサンプルとともに、両親の捜索願を出して、東京に戻った。■葬儀のタイミングで遺体を発見。「私たちにメッセージをくれた」震災からおよそ半年後。理恵さんたち家族は、遺体なきまま両親の葬儀を執り行うことを決めた。「葬儀の1週間ぐらい前、宮城県警から、もしかしたら母かもしれないご遺体が見つかった、と連絡が。その写真をひと目見て、私は『母だ!』と。着ているものもそうですけど、もう直感的に、間違いないって。でも、まだ100%確定ではないということで、県警の方が、おじたちのDNAも採るために9月4日、葬儀の会場に来てくれた。サンプルが多ければ照合の精度が上がるということでした」「二三六」という番号が割り振られていたその遺体は、理恵さんの実家から数百メートル離れた、大川で発見されたものだった。約2週間後。理恵さんのもとに、ふたたび県警から連絡が入る。「鑑定の結果、遺体番号二三六は母で間違いない、とのことでした。まさに葬儀のタイミングで、親族が集まるなかで判明するなんて。今度は母が、私たちにメッセージを送ったのかな、そう思いました」震災から10年。理恵さんは少しずつ心の整理がついてきたという。「それでも毎年、3月11日は巡ってきますし、悲しみが消えることはないです。でも、母はしょっちゅう、夢に出てきてくれます。当初は悲しい夢が多かったですが、いまは幸せな、なんてことない日常のワンシーンが多い。今年の初夢もそんな、ありふれた家族だんらんの夢でした」■妹が夢枕に立ったなら「皆、もう大丈夫、安心してね」と言いたい妹・喜代美さんの遺体が見つかって、生島さんは「ある意味、ホッとしました」と話す。「でもね、その後、発見された現場まで足を運びましたが、勝手に涙があふれてきましたね。『あんまり苦しまなかったかな、でもきっと、寒かったろうな』って」喜代美さんが発見された大川のほとりを記者に案内しながら、前出の同級生・廣野さんと、いとこの佐藤さんは、震災を経て生島さんが変わった点を教えてくれた。「それまで以上に、気仙沼のことを気にかけるようになった。ラジオの番組も毎年3月に気仙沼から放送するなど、頻繁に足を運んでくれるようになりました」廣野さんの言葉に、佐藤さんはこう続けた。「番組ではよく、気仙沼出身の歌手・熊谷育美さんの『雲の遥か』を流してます。震災のことを念頭に作られた曲だと思いますが、ヒロシさん、これ聴くと必ず泣く。震災後は涙もろくなりましたよね」一方、めいの理恵さんは「おじは以前にも増して前向きになったように思う」と笑う。「震災後、泣いてばかりだった私は、おじから『人前に出るときは笑っていなさい』と注意されました。おじは……、10年前はさすがに笑いこそしませんでしたが、気丈でした。そして、その後はよりポジティブに。悲しみをエネルギーに変えているように見えました」当初、母・喜代美さんのことをメディアで話すおじに、理恵さんは少なからず抵抗も感じていた。「被災した故郷や、行方がわからない両親が、なんだかネタにされてるような気がしてしまって」でも、生島さんが気仙沼について発信するその真意を、徐々に理解できるようになった。いまおじのもとを離れ、放送局の社員になった理恵さんはこう考えている。「いまとなっては、ただただ私が未熟だったと反省しています。放送人としての、おじの振舞いに間違いはありませんでした。きっと、そのことは天国の母も十分、理解していると思います」当の生島さんは、いつもの軽妙な語り口で、改めて力をこめた。「放送人としての僕の役割は、震災を風化させず、真に復興する日までしゃべり続けることかな、と。そう、アナウンサーは死ぬまでマイクを離しませんよ!」いまだ兄の夢に現れることがないという喜代美さん。もし、彼女が夢枕に立ったなら、生島さんはなんと声をかけるのだろうか?「そうですね、こう言ってあげたいですね、理恵ちゃんや、遺された人たちは皆、もう大丈夫だから、『安心してね』と─」こう言い終えて、生島さんは、この日いちばんの笑みを浮かべた。「女性自身」2021年3月16日号 掲載
2021年03月11日2021年3月11日で、東日本大震災から10年が経ちます。震災当時は未熟な獣医師だったという、セントラルド熊(@4RewJJOmWiLzR7L)さんは、『動物を飼っている方へ』と題した漫画を、Twitterに投稿。すると、「胸が張り裂けそう」などの声が上がりました。『動物を飼っている方へ』避難の途中で置いていかれた動物たち。救いの手が入るも、死を迎えてしまった動物もいました。動物を飼っている人が、実際に避難する時に、考えておかなければならないこととは…。東日本大震災の時にとってしまった誤った行動5/5 @4RewJJOmWiLzR7L pic.twitter.com/q5z6RX4iSW — セントラルド熊 (@4RewJJOmWiLzR7L) March 8, 2021 「ペットを飼うことは人間の余裕があってこそのぜいたく。人間の明日すら定かではないのに、この仕事を安穏と続けていること自体が申し訳ない」そんな風に、自分の無力さを感じていた投稿者さん。ある日、投稿者さんが大きな避難所に動物の薬とフードを持って行くと、車の中や廊下に動物がいたのです。その光景を見て「家族や人生をえぐり取られて、せめて動物くらいそばにいてもいいじゃないか」とこれまでの考えが一新されたといいます。投稿者さんは「可能の範囲を決めて諦める判断もする。しかし、それが最後の別れになる覚悟が必要」と訴えました。自分の命を救うためにも、動物の避難準備を整えておくことは必要でしょう。【ネットの声】・読んでいて悲しくなりました。動物を飼っているものとして考えさせられます。・涙が流れました。私は災害が多い日本だからこそ、いまだにペットを飼う決断ができていません。・本当に大事なこと。これから動物を飼う人や、すでに飼っている人にも読んでもらいたい。・何が正しいのか分からなくなってきた。避難所には動物アレルギーの人もいるだろうし…。難しい。環境省によると、東日本大震災で亡くなった犬は、少なくとも青森県で31頭、岩手県で602頭、福島県では約2500頭だったといいます。犬は、狂犬病予防法に基づく登録が義務付けられていたために、おおよその数が分かりましたが、猫やほかのペットは不明のため、具体的な数字は出ていません。きっと、多くのペットたちが亡くなったと考えられます。まずは人命が第一ですが、避難をする時にペットたちをどうするのか、改めて考えておく必要があるでしょう。[文・構成/grape編集部]
2021年03月09日2021年3月9日、情報番組『バイキングMORE』(フジテレビ系)では、司会者を務める俳優の坂上忍さんが、お笑いコンビ『サンドウィッチマン』と東日本大震災の被災地を訪れる特集を放送。サンドウィッチマンの2人が被災地にあるメッセージを残しました。サンドウィッチマンが被災地にメッセージ番組で一行が訪れたのは、宮城県気仙沼市にある、震災の記憶と教訓を伝えるための施設『東日本大震災遺構・伝承館(以下、伝承館)』。ここでは、高さ12mを越える津波の被害を受けた『宮城県気仙沼向洋高校』の旧校舎を見学することができます。東北出身のサンドウィッチマンの2人にとって、この旧校舎は高校時代にラグビーの試合で遠征に来たこともある場所なのだそう。伝承館では訪れた人に、付箋に感想や応援の言葉を書いてもらっているとのことで、最後にサンドウィッチマンの2人も想いをつづっていました。これからも沢山の方を連れて来ます。東北魂サンドウィッチマン伊達バイキングMOREーより引用逃げようねまた会うためにサンドウィッチマン富澤たけしバイキングMOREーより引用「これは我々の使命」と語っていた、『サンドウィッチマン』の伊達みきおさん。2人のメッセージからは「多くの人に被災地に訪れてもらい、震災のことを知ってもらいたい」「震災の教訓を忘れない」という強い気持ちが表れていました。ネット上では、視聴者からさまざまな声が寄せられています。・サンドウィッチマンの言葉は、体験したからこその重みがあって、心に響きます。・涙が出てきた。震災の映像は見たくないけど、ちゃんと知らないといけないし、自分がどう生きていくのかを考えないといけない。・富澤さんのメッセージに号泣。とても短い文面なのに心に刺さった。伝承館の付箋のメッセージは2019年のオープン以来、1万件を超しているとのこと。震災から10年が経ったといえども、完全に復興をしているわけではなく、被災して大切な誰かを失った人たちの痛みが消えるわけでもありません。多くの人が被災地に想いを寄せ、震災の記憶を忘れずにつないでいくことが、大切でしょう。[文・構成/grape編集部]
2021年03月09日GReeeeNが3月4日に配信リリースした新曲「蕾」のリリックビデオを公開した。「響」は、3月6日からスタートしているTBSの報道プロジェクト『東日本大震災10年プロジェクト「つなぐ、つながる」』のテーマソングに起用中の楽曲。3月4日には、TBS『NEWS23』内の音楽コーナー「news23 MUSIC」にて、作曲家・服部隆之によるアレンジとオーケストラの生演奏によるスペシャルバージョンが放送された。放送を見た視聴者からは「オーケストラの生演奏とっても感動しました」「涙が溢れます」など反響が相次いでいる。GReeeeN「蕾」リリックビデオ<放送概要>東日本大震災10年プロジェクト「つなぐ、つながる」TBS『東日本大震災10年プロジェクト「つなぐ、つながる」』ロゴ参加番組:特別番組『つなぐ、つながるSP』『Nスタスペシャル・東日本大震災10年~つなぐ、つながる~』『Nスタ』『NEWS23』『報道特集』『サンデーモーニング』番組公式サイト:<リリース情報>GReeeeN「蕾」※TBSテレビ系列『東日本大震災 10 年プロジェクト「つなぐ、つながる」』テーマソングGReeeeN「蕾」ジャケット2021年3月4日(木) 配信リリース配信リンク:
2021年03月08日愛娘の将来の幸せを願うのが父親というもの。それは皇族であっても変わらない。誕生日に際しての天皇陛下の記者会見では、父娘の「話し合い」がキーワードとなった。陛下と秋篠宮さま、それぞれの父娘関係の変遷を、写真で振り返ります――。■天皇陛下【’02年】子育て参加宣言をされた陛下が国民の前で愛子さまを抱っこ。【’02年】雨の中、学習院幼稚園の父親参観へ。行事にも積極的に。【’11年】那須御用邸でご静養中、父娘二人の時間。那須どうぶつ王国でラクダの背に乗られて。【’17年】愛子さまも両陛下のご公務に同行され、ウィーン少年合唱団のコンサートをご鑑賞。【’19年】愛子さま18歳のお誕生日写真。仲のよさがうかがえるワンシーン。■秋篠宮さま【’94年】葉山御用邸裏の海岸。パパに抱っこされてご満悦の眞子さま。【’98年】眞子さまと手をつながれて、学習院初等科入学式へ。【’14年】たびたびお二人でのご公務も。仙台市の東日本大震災では子どもたちとご交流を。【’17年】ハンガリーをお二人でご訪問。小室圭さんとのご婚約内定会見を翌月に控えての私的旅行。【’18年】ご婚約延期直後、ご公務で映画鑑賞。表情は少し硬く……。「眞子内親王が、ご両親とよく話し合い、秋篠宮が言ったように、多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております」誕生日に際しての記者会見で、天皇陛下は、延期されている眞子さまのご結婚について「国民の間で様々な意見があることは私も承知しております」とお述べになった後でこのように話された。短いお言葉ではあるが、ご自身も愛子さまのお父さまであるだけに、秋篠宮さまが今抱かれている眞子さまへのお気持ちを気遣われての発言と感じられた。また陛下は、愛子さまの将来についても「結婚のことも含めて、いろいろ将来のことも話し合う機会というものがあるかと思います」とお話しに。愛子さまの成長に少し頼もしさを感じられるときもあるという。一方、秋篠宮さまも昨年の会見で眞子さまと「いろいろと話す機会があり」、その話し合いも含めて結婚を「認める」とお述べになっていた。とはいえ、陛下のお言葉にあるように、まだまだ眞子さまと話し合われる必要がありそうだ。「女性自身」2021年3月16日号 掲載
2021年03月06日2021年3月11日、Bunkamuraオーチャードホールで宝塚OG 毎日希望奨学金チャリティーコンサート「忘れない~天国の大切なあの人へ~」を開催する。この公演は、東日本大震災で保護者を亡くした震災遺児支援を目的に、毎日新聞社が設立した「毎日希望奨学金」のためのチャリティーコンサート。東日本大震災で亡くなった方への手紙を投函する岩手県陸前高田市の「漂流ポスト」に寄せられた愛のメッセージを、宝塚OGの北翔海莉、桜一花、壱城あずさ、如月蓮、妃海風の5人が、愛をテーマにした歌とともに届ける。今年は東日本大震災から10年の節目の年。と同時に、新型コロナウイルスという新たな脅威も出現した。こうした変化の中で、出演者の舞台にかける思いは例年以上だ。4度目の出演となる元星組男役トップスターの北翔海莉さんはこう語ってくれた。「今、コロナ禍が世界中を覆っています。多くの方が苦しみや不安を抱える中で、生の舞台の醍醐味(だいごみ)やエンターテインメントの光を消してはいけない。コンサートや公演など、エンタメには生きる力、精神力を生み出すエネルギーがある。祈るような気持ちで舞台に上がるつもりです」。元星組トップ娘役の妃海風さんも「手紙に書かれたことの意味を感じ、歌も含めてその繊細な思いを大事に丁寧な公演にしたい」と意欲を見せる。今回の公演は、バラエティー豊かなセットリストに注目が集まっている。前半は手紙の朗読とともにJ-POPの名曲が心に響く。後半は宝塚歌劇団のナンバーをOGが時に華やかに、時に切なく歌いつなぐ。「天翔ける翼」「運命よ、今夜は女神らしく」では宝塚の感動の舞台が再現され、「美女と野獣」を北翔さんと妃海さんコンビがロマンティックに歌う。「恋は元々アンフェア」は壱城と如月のコラボ、「JUMP!」は桜を軸に舞台「オーシャンズ11」の感動が思い出される。その他、宝塚ファンならずとも心に元気と癒しをくれる珠玉の名曲ばかりだ。また、北翔さんがトップ男役時代の思い出の宝塚が甦る構成になっている点にも注目だ。元星組のトップスターコンビ、北翔さんと妃海さん。桜さんは北翔の一期後輩。壱城さんと如月さんは北翔さんと同じ星組に所属していた。本公演は、有料生配信も実施。3月17日まで会場の感動を繰り返し楽しむことができる。震災10年となる「特別」な公演をぜひお楽しみに。
2021年03月04日2021年2月26日、中国政府は台湾産パイナップルから害虫が検出されたとして、同年3月1日から輸入を停止すると発表。台湾側はこれを「政治的な圧力」と反発し、対策として日本をはじめ各国への輸出を拡大していました。蔡英文総統が日本にお礼のメッセージ産経ニュースによると、台湾の農業委員会は同年3月3日、日本のパイナップル購買量が前年比約130%増の5千トンになるとの見通しを報告しています。これについて、台湾の蔡英文(さい・えいぶん)総統がTwitterで日本の消費者に向けて、お礼のメッセージを発信し、反響を呼びました。台湾産パイナップルを応援してくださる日本の皆さん、ありがとうございます!台湾にいらしたら必ずと言っていいほどパイナップルケーキを購入されるでしょうが、台湾産パイナップルはフルーツとしてそのまま食べるのも最高なんですよ!ぜひ食べてみてください! pic.twitter.com/L2WUnIOaUB — 蔡英文 Tsai Ing-wen (@iingwen) March 3, 2021 台湾産のパイナップル購買量が日本で増加した背景には、台湾のキャンペーンや、日本語によるTwitter、SNS上の呼び掛けの影響が大きかったと見られています。When it comes to #Taiwanese treats, our pineapple cakes are always at the top of the list. Have you ever tried one? #パイナップルケーキ を食べたことありますよね?パイナップルケーキといっても、台湾にはいろいろな種類があります。皆さんが好きなパイナップルケーキを教えてください! pic.twitter.com/C7pTXR23fz — 蔡英文 Tsai Ing-wen (@iingwen) February 27, 2021 台湾産のパイナップル、中国は3/1からの輸入禁止を発表しましたが、我々はそれでも決してたじろぎません。台湾の農民が苦労して育てた美味しくジューシーなパイナップルは、台湾のみならず、日本の方にも愛されています。まだ召し上がったことのない方は、ぜひ台湾産のパイナップルをお試しください。 pic.twitter.com/KUwZDwPYyD — 鄭文燦 Cheng Wen-Tsan (@ChengWenTsan) February 26, 2021 産経ニュースによると、中国政府は輸出停止による経済的な打撃により、蔡政権への反発が台湾内で高まることを狙ったとみられているそうです。しかし、蔡英文総統は中国側の発表があった後、すぐに産地を訪れ、生産者の支援を表明。値崩れを防ぐため予算を投入し、市民に消費を促す情報発信や各国への輸出開始など、迅速な対策を行いました。その結果、台湾の人々が団結し、各国の支持拡大にもつながっているのではないでしょうか。Twitter上では、日本のユーザーから応援の声が多数上がっています。・台湾にはマスク不足の大変な時に、お世話になりました。困った時はお互いさまですね。・東日本大震災の時の義援金は今でも忘れません。台湾産のパイナップルを応援します!・台湾のパイナップルを食べたら、ほかのは食べられない。甘くてジューシーで最高です。台湾産のパイナップルは、酸味が少なめで芯までおいしく食べられるとのこと。スーパーマーケットやオンライン上でも購入できるので、応援の気持ちも込めて、気軽に試してみてはいかがでしょうか。[文・構成/grape編集部]
2021年03月04日有村架純主演作品「有村架純の撮休(#1)」と『劇場版 そして、生きる』が、3月15日から開催される「第12回Asian Pop-Up Cinema」で上映が決定。そして両作品が評価され、日本人初となる「BRIGHT STAR AWARD」を受賞することが明らかになった。「Asian Pop-Up Cinema」は、アジアの選りすぐりの映画を紹介する、アメリカ・シカゴで毎年春と秋の年2回開催される映画祭。今年で5年目を迎える同映画祭は、過去には『サバイバルファミリー』や『カメラを止めるな!』などが上映され、『翔んで埼玉』は観客賞を受賞した。そして今年は、東日本大震災後のボランティア活動で出会った2人が、運命に翻弄されながらも強く美しく生き抜く姿を描く、ドラマの再編集版『劇場版 そして、生きる』。ドラマや映画の撮影期間に突然訪れた休日、通称“撮休”をどう過ごすのかを、各界のクリエイターたちが妄想を膨らませて描き、有村さんが“有村架純”を演じる1話完結のオムニバスドラマ「有村架純の撮休」を上映。本作で主演を務め、今回日本人初となる快挙を成し遂げた有村さんは、「この度、第12回アジアン・ポップアップ・シネマ、ブライトスター・アワードを頂戴しました。本当にありがとうございます」とまず感謝を述べ、「自分にとってもものすごく大切な作品」「とても新鮮でしたし、本当にいろいろなことに挑戦できたのでとても楽しかった記憶しかありません」と、今回上映される2作品について語っている。なお本来、映画祭へ招聘されるところだが、今回は映画祭特設サイトでビデオメッセージを寄せている。有村架純コメントこの度、第12回アジアン・ポップアップ・シネマ、ブライトスター・アワードを頂戴しました。本当にありがとうございます。今回、映画祭では私の主演させて頂いている作品2本、上映致します。まず一つ目は、「劇場版そして、生きる」です。この作品は、東日本大震災後のボランティアをきっかけに様々な運命に翻弄されながらも懸命に生きていく女性を演じています。東日本大震災から10年の時が経つんですけども、この作品を経てあらためて災害について考えるきっかけとなればいいなと思いながら作品にさせてもらいました。自分にとってもものすごく大切な作品となりました。もう1本目は、「有村架純の撮休」の第1話目です。この作品は、突然、撮影がお休みなったら、女優は何して過ごす?フェイクドキュメンタリーの作品になっています。私は、本人役で出演させて頂きましたなかなかない企画のお話しだったので、とても新鮮でしたし、本当にいろいろなことに挑戦できたのでとても楽しかった記憶しかありません。是枝監督と初めてご一緒して、とても心地のよい時間を過ごさせて頂きました。機会があったら、是非ご覧ください!連続ドラマW「そして、生きる」(全6話)、「有村架純の撮休」(全8話)はWOWOWオンデマンドにて配信中。(cinemacafe.net)■関連作品:劇場版 そして、生きる 2019年9月27日よりイオンシネマ板橋、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国にて公開Ⓒ2019 WOWOW
2021年03月03日有村架純が出演する主演作品『有村架純の撮休(#1)』と『劇場版 そして、生きる』が今年3月15日(月)から開催される「第12回 Asian Pop-Up Cinema」で上映されることが決定。さらに両作品が評価され、日本人初となる「BRIGHT STAR AWARD」を受賞する運びとなった。「Asian Pop-Up Cinema」はアメリカ・シカゴで毎年春と秋の年2回、アジアの選りすぐりの映画を紹介する映画祭。日本、中国、香港、韓国、台湾、インドなどから各国の話題作が集まり、今年で5年目を迎え第12回の開催となる。これまでに『サバイバルファミリー』『カメラを止めるな!』などが上映され、『翔んで埼玉』は観客賞を受賞するなど日本映画は高い評価を得ている。今回、有村の主演2作品を一挙に上映する中、日本人初となる快挙に喜びのメッセージが届いた。本来、映画祭へ招聘されるところだがコロナウイルス禍のため、映画祭特設サイトでもビデオメッセージを寄せている。●有村架純この度、第12回アジアン・ポップアップ・シネマ、ブライトスター・アワードを頂戴しました。本当にありがとうございます。今回、映画祭では私の主演させて頂いている作品2本、上映致します。まず一つ目は、『劇場版そして、生きる』です。この作品は、東日本大震災後のボランティアをきっかけに様々な運命に翻弄されながらも懸命に生きていく女性を演じています。東日本大震災から10年の時が経つんですけども、この作品を経てあらためて災害について考えるきっかけとなればいいなと思いながら作品にさせてもらいました。自分にとってもものすごく大切な作品となりました。もう1本目は、『有村架純の撮休』の第1話目です。この作品は、突然、撮影がお休みなったら、女優は何して過ごす?フェイクドキュメンタリーの作品になっています。私は、本人役で出演させて頂きましたなかなかない企画のお話しだったので、とても新鮮でしたし、本当にいろいろなことに挑戦できたのでとても楽しかった記憶しかありません。是枝監督と初めてご一緒して、とても心地のよい時間を過ごさせて頂きました。機会があったら、是非ご覧ください!『連続ドラマW そして、生きる』(全6話)『有村架純の撮休』(全8話)WOWOWオンデマンドにて配信中
2021年03月03日2021年3月11日で、東日本大震災から10年の節目です。同年2月13日には、宮城県と福島県で最大震度6強を観測する地震が起こり、東日本各地で大規模な停電も発生しました。そんな中大規模な災害に対する備えを、改めて考えさせられた人も多いことでしょう。ゼンリンからの『お願い』が話題に同月24日、地図の制作・販売をしている株式会社ゼンリン(以下、ゼンリン)がTwitterアカウントを更新。内容が「本当に大事」「広まってほしい」と反響を呼んでいます。災害時に必要な食料や、避難する時にあると便利な物を入れる、防災バック。防災バックの中に必ず入れてほしいものを、ゼンリンはこう呼びかけました。唐突ですがお願いがあります 先日の大きな地震で、大規模停電が発生しました...忘れてほしくないので今一度「災害時の地図について」お伝えさせてください。⁰ ⁰防災バッグの中に「ご自宅付近の地図」必ず入れておいてください! なんなら当社の地図でなくてもいいです、おねがいします。— 株式会社ゼンリン (@ZENRIN_official) February 24, 2021 防災バッグの中には、『自宅付近の紙の地図』を必ず入れるよう呼びかけたのです。地図はスマホでも見ることができますが、紙の地図の大切さについてこう解説しています。災害発生時において地図はとても大事な情報源ですが、停電時のスマホの電源は非常に貴重です。 スマホでの地図使用は極力控え、ニュース等「最新情報の取得」に活用してほしいんです これで少しでも困る人が減るなら、何度でもツイートします!— 株式会社ゼンリン (@ZENRIN_official) February 24, 2021 災害時、スマホの電源は重要。スマホの電源は、地図の使用ではなく「被害状況などの最新情報を得るのために使ってほしい」と訴えます。普段の街並みが一変することがあるため、事前に準備した地図で避難場所、避難場所までのルート、危険箇所などを確認しておくといいそうです。「なんなら当社の地図でなくてもいい」というコメントとともに呼びかけたゼンリン。「困っている人をただ救いたい」というゼンリンの切なる願いが伝わってきますね。投稿は反響を呼び、このような声が上がっています。・大事なことですね。道路や家屋が壊れたりすると、見慣れている場所もまったく違う場所になる…。・東日本大震災からしばらくは、防災について心がけてたけど、最近は気持ちがゆるんでいたかも。防災バックの中身を見直そうと思います。・「自社の地図でなくてもいい」という気持ちが素敵。非常時は、電源が必要ないものがすごく大事ですよね。多くの人が、非常時に必要なものを見直すきっかけになったようです。災害の多い国、日本。一人ひとりが自分や家族の命を守るために、今できることを準備しておくことが大切ですね。投稿全文はこちら唐突ですがお願いがあります 先日の大きな地震で、大規模停電が発生しました...忘れてほしくないので今一度「災害時の地図について」お伝えさせてください。⁰ ⁰防災バッグの中に「ご自宅付近の地図」必ず入れておいてください! なんなら当社の地図でなくてもいいです、おねがいします。— 株式会社ゼンリン (@ZENRIN_official) February 24, 2021 災害発生時において地図はとても大事な情報源ですが、停電時のスマホの電源は非常に貴重です。 スマホでの地図使用は極力控え、ニュース等「最新情報の取得」に活用してほしいんです これで少しでも困る人が減るなら、何度でもツイートします!— 株式会社ゼンリン (@ZENRIN_official) February 24, 2021 宣伝ぽくなってしまいスミマセンが...それでもゼンリンの地図入れておくよ!と言ってくれるみなさまへ、参考にこちら貼っておきます。300円のものでOKです。 ⁰なにかが起きるその前に、どうぞ改めてのチェックをお願いします! — 株式会社ゼンリン (@ZENRIN_official) February 24, 2021 <追記します>災害時は、平常時に想定しないことばかり起こります。また、見慣れた景色が一変することもあります。 備えていただく地図に、避難場所・ルート・危険箇所のチェックなどお願いします! 参考までに、当社の防災マップ活用術ページをどうぞ! — 株式会社ゼンリン (@ZENRIN_official) February 25, 2021 近所の地図って必要?というご意見が多かったので... 「防災観点で日々そこで生活していないからです」とお伝えいたします。知りすぎてるからこそ危険なこともたくさんあります... 万が一の事態に安全に落ち着いて行動してほしい...そのために地図を常備してほしいのです— 株式会社ゼンリン (@ZENRIN_official) February 25, 2021 [文・構成/grape編集部]
2021年03月01日2021年3月11日で、東日本大震災から10年が経ちます。国内観測史上最大規模である、マグニチュード9.0を観測し、宮城県北部で最大震度7の揺れが襲いました。また、岩手県、宮城県、福島県を中心に巨大な津波が襲来。復興庁が2021年2月26日に発表している東日本大震災による全国の避難者数は、現状でも約4万人以上だといいます。サンドウィッチマン、震災から5日後に設立した基金は10年で約5億円宮城県出身の、お笑いコンビ『サンドウィッチマン』。震災から5日後の2011年3月16日に、2人は被災者を支援するために『東北魂義援金』を設立しました。10年経った今でも義援金を募集し、2人は2021年2月27日にブログで宮城県知事の村井嘉浩氏へ1425万6796円を手渡ししたといいます。伊達みきおさんは、この10年で『東北魂義援金』に寄せられ、被災地に届けた金額は4億9千万円を超えると明かし、感謝の言葉をつづりました。震災から10年になる今年も、全国の皆さんからこうして東北の被災地を気に掛けて頂き、本当に嬉しく…心から感激しております。被災地を応援して下さる全国の方々始め、和田アキ子さん、中居正広さんや芸能界の先輩方、ナイツの塙くんや芸人仲間からも沢山のご協力を頂きました。東北魂義援金は、東日本大震災で親御さんを亡くされた子供達(震災遺児・孤児)の生活費や学費に使われます。これまでの10年で、東北魂義援金に寄せられ、我々が直接被災地に届けた金額は合計で【4億9117万5719円】になります。本当に凄い額です。感謝しております☆東北魂義援金☆ーより引用また、富澤たけしさんは、震災から10年経つものの風化を感じることはないと明かしています。ご協力頂いた皆様、本当にありがとうございました。震災から間もなく10年ですが、まだまだ全国からこれだけのお気持ちを預かることができるし、テレビやラジオを通じて東北に旅行に行かれた話や食べ物のお取り寄せ情報などに触れているので世間で言われるほど僕らは風化という物を感じていません。これまで宮城、岩手、福島に義援金を届けてきましたが、震災孤児等支援の金額はかなり集まったというお話も聞くので、東北魂義援金も何か別の用途にしていこうかと話しています。東北魂義援金ーより引用震災遺児・孤児の子供たちへの寄附はほかの団体からの支援もあり、ある程度集まってきたといいます。そのため今後は、形になる何かを被災地に寄贈出来ないかと考えているとのことです。伊達さんは「寄せられた基金で被災地の公園などにベンチを造ったり、子供達が遊べる砂場を造ったり…」と考えを明かしました。気象庁は2021年2月13日の深夜に起きた福島県沖の地震は、東日本大震災の余震と考えられると発表しています。この地震で、10年前の地震を思い出した人も多いようです。伊達さんも「緊急地震速報や映像を見て、どうしても10年前を思い出して震えた」とブログにつづっていました。この大きな地震が風化することなく、『東北魂義援金』を通してたくさんの人が幸せになることを願います。[文・構成/grape編集部]
2021年02月27日震災直後の2011年5月の開催から10年。ついに「がんばろう日本!スーパーオーケストラ」が最終回を迎える。東日本大震災で保護者を亡くした震災遺児の学業継続を支援する「毎日希望奨学金」のためのこのチャリティーコンサートは、全国の交響楽団などで活躍する演奏家たちが毎年一夜限りの「夢の楽団」を結成し、音楽を届けてきた。本公演は、新型コロナウイルスの影響で延期となって1年越しのコンサートでもあり、出演者たちの意気込みは例年以上だ。ピアノの實川風さんは、この新型コロナ禍で「客席に生の音を届けることのできる喜びや大切さを、以前よりも強く感じます」と話す。だからこそ「震災から10年という中でのコロナ禍に、被災地のみなさんはさらに大変な日々を過ごされているのではないかと思います。少しでも日々のパワーにつながる演奏をお届けしたいと思います」と気持ちを新たに演奏に臨む。バイオリンの辻彩奈さんは、演奏曲であるブルッフのスコットランド幻想曲に触れながら、「特に光が差してくるような美しいメロディーの第3楽章が、新型コロナの感染拡大によって制限ある世の中で生きる私たちの心に寄り添ってくれると思います。聴いてくださる方の心に届くような演奏を目指したい」と話す。そして、指揮を執る山下一史さんは「音楽に癒やしがあるかどうかは今もわかりませんが、作曲家が曲に込めた思い、それを演奏する演奏家の思い、聴衆の思いがつながった絆が、音楽に力を宿らせることはできます。新型コロナの恐怖が収まらない中、会場に足を運んでくださいとはなかなか言えませんが、この渦中にある我々だからこそ、震災に思いをはせることには特別な意味があります」と力を込める。コンサートは、ライブ配信でも、アーカイブ配信でもお楽しみいただける。アーカイブ配信は3月9日23時59分まで。指揮、ソリスト、そしてスーパーオーケストラが一体となった演奏をぜひお楽しみに。
2021年02月26日うちのダメ夫
あの日、私はいじめの加害者にされた
私、「サレ妻予備軍」になりました。